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日本基督教団 遠州栄光教会

週報からfrom weekly letter

 週報に掲載された、教職者や長老による週報1面の文章を掲載します。教会の雰囲気などを感じ取っていただければ嬉しいです。

2016年2月19日 週報1面 盛合尊至


 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オルメル升で量ってみると、多く集めた者もあまることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。   出エジプト記16・17―18

 2月3日に息子の保育園で豆撒きならぬお菓子撒きがあったらしい。豆を急いで食べて喉に詰まらせる子どもがいるとか、中には大豆アレルギーの子どももいるとかという理由からだという。日本の年中行事の風情云々という問題もあるだろうが、私自身は豆よりも美味しいから良いんじゃないかと思う。
 さて、その日の夜、家に帰ると息子が大きな袋を持って玄関まで飛んで来た。そして、戦利品の自慢よろしく中身のお菓子を取り出しながら一つずつ説明し始めた。誰に似たのか食い意地の張った子どもなので、他の友達を差し置いて一番たくさんゲットしたらしい。自慢する息子の話を聞きながら冒頭の聖書個所をどう教えたら良いだろうと思った。と同時に、「これでしばらく家でのお菓子には不自由しないな」という皮算用も頭に浮かんだ。意気揚々と自慢を続ける息子の話を聞き続けながら、早く家の中に入れてもらえないものだろうかと思い始めたところで長い自慢話は終了した。「さて、中へ」と思った途端、息子が今度は「これは○○君、これは△△ちゃん、これは□□君……」と教会学校のお友達の分をより分けて、渡してくれるようにと依頼してきた。
 イスラエルの民が荒野で神様からいただいたマナは、必要な分だけ集めるようにと神様から命じられていた。必要以上を集めても、翌日になるとそれは傷んでしまい食べられなくなってしまったという。神様の養いはその時その時に応じて必要な分だけ与えられるのだ。息子はこの聖書個所を知ってか知らずか、お菓子をたくさん与えられた喜びを、教会学校の友達とシェアすることを知っていたのだ。それに反し、御言葉を知っていながらもこれから当面のおやつ代のことしか頭に浮かばなかった自分を省みさせられた。  教会学校のお話の時に知らん顔をしていても、神様からの御言葉の恵みをしっかりと受け取っていることに驚き、神様に育てていただいていることに感謝した。


2016年1月29日  説教要約 盛合尊至  テモテへの手紙T1:12〜17


 パウロは真剣に神様の救いを求めるユダヤ教徒でした。その信仰の姿勢はストイックなまでに厳しい者でした。そのことは、ガラテヤ1章14節に誰よりもユダヤ人としての伝統を守り、信仰を深めようとしていた姿勢が述べられています。ですので、伝統的なユダヤ教の立場からは、神様の教えから逸脱してしまっているかのように見えるイエス様の教えとそれを求める初代教会の人々を迫害しました。このことについて、ハウロは「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」と告白しています(1章13節)。この告白を可能にしたのは、「目からウロコ」で有名なパウロの回心の物語の中のイエス様との出会いです。このイエス様に出会うということは、何も聖書の中のパウロのお話に限ったことではありません。今生きている私たち誰にでも起こることです。特に何かの折に聖書の御言葉に触れて、教会の礼拝に足を向ける人は誰でもイエス様と出会っているのです。
 さて、パウロは、冒頭にも述べましたように、初代教会の人々にとっては恐ろしい迫害者でした。ですので、彼がイエス様と出会い、生き方を大転換させたと言っても、初代教会の人々にはそう簡単には信じてもらえなかったことでしょう。そんな彼らから、パウロが信頼を得て信仰者として認められ、使徒として立つためには、口先のみの証しの言葉だけでは足りなかったでしょう。恐らくパウロは、彼ら初代教会のコミュニティの中に加えてもらうために、言葉による証しと共に、イエス様によって罪を赦され、神様の恵みによって生きていることを身を以って行動で示したことでしょう。このことが、「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となる」ことだったのです。そして、これがともに福音宣教のために働く動労者テモテへの勧めの言葉となっているのです。
 しかし、現代においてこの御言葉を読む私たちは、「信仰者の手本になりなさい」と言われると、ギョッとしてしまいます。パウロのような大きく力強い信仰を持ち得ていないからです。自信がないのです。まして、彼のように世界に出ていき、世界中に教会を建てるなどということは夢物語のように思えるのです。今日の御言葉は、私たちにパウロになりなさいと言っているのではないのです。私たちは逆立ちしてもパウロの真似事はできません。けれども、信仰者として神様の養いを頂き、その恵みによって生かされている喜びを感じているはずです。その喜びを日常生活の中で共に生きる周囲の人々に伝えることはできます。私たちは、イエス様に出会っていただいて、その十字架での赦しの業によって罪を赦されていることを自分の口で告白することを許されました。そして、信仰を持つことを許されたのです。
 わたしたちがその喜びを伝えることができるようになるためには、本日の聖書個所でのパウロのように、かつて神様に背を向ける罪を日々思い出して悔い改めて、その罪が赦されていることを感謝することが大事です。つまりイエス様が出会って下さり、私たちの罪に気づかせてくださったことに対して、悔い改めと感謝の気持ちを「ごめんね、ありがとう、イエス様」と日々告白することが大事なのです。
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2016年1月22日 週報4面 盛合尊至  宗教改革500周年にあたり


 本年二〇一七年は、宗教改革五〇〇周年に当たる。具体的には、マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に「九十五か条の提題」を提示した年からの年数である。日本基督教団でも、「記念礼拝」や「信徒大会」など、様々な取り組みが計画されているようである。けれども、これを単なるお祭りのようにとらえて一年を過ごしてしまうのではなく、私たちの信仰の根っこに当たる世界史的な出来事に思いを馳せて、ルター、カルヴァン、ツヴィングリら宗教改革者がその信仰の革新に求めていたものを思い出し、私たちも共に持ちたいものである。
 W.ナーゲル「キリスト教礼拝史」によれば、礼拝においてルターが中世教会のミサに対して行ったことは、中世教会が行っていた「犠牲の」「善きわざとしての」「功績としての」ミサを拒絶して、「恵みの」、「与えられた」、「契約」の約束に満ちた礼拝を主張することだったという。つまりは、キリストの約束を信じることそのものが礼拝であり、それを信じている者はたとえ外面的に何もしなくてもミサを行っているのだと。
 ご存じのとおり、ルターは中世教会のミサから信仰義認の考え方にそぐわないものを取り除いていった。その一方で「見世物的ミサ」やサクラメントの祭儀の絶対化に抗議し、神の御言葉の宣教という形式を主張した。私たちの主日の礼拝でも、月に一度聖餐式を守っている。逆に言えば、ひと月の内、残りの三週ないし四週はサクラメントにあずからない礼拝を守っているのである。しかし、御言葉の解き明かしである説教のない礼拝はない。それほど礼拝において説教は重要な意味を持つのである。
 ここでふと考えさせられた。私たちの礼拝が本当に「恵みの」、「与えられた」、「契約」の約束に満ちた礼拝になっているかどうかということについてである。ルターが中世教会のミサから排除した余計なものを私たちは再度持ち込んでいるのではないだろうか、あるいは余分なのものを新たに作り出しては付け加えているのではないだろうかという危惧を感じる。私たちの守るべき礼拝は、実はもっとシンプルなものなのではないかとも思う。聖書の御言葉を通して恵みを与えられ、イエス様の十字架を通して示された救いの約束の中に入れられる幸いを感謝する礼拝、また信仰生活を、宗教改革五〇〇周年に当たる本年はより一層意識していきければ、と思う。

2016年1月15日 週報1面 盛合尊至  テトス2:11〜12


 この聖書箇所に記されている「神の恵み」とは、いうまでもなくイエス様の十字架上での私たち人間の罪の贖いの御業です。パウロはこれによって大胆に御言葉を語り、御言葉を広めるようにと、同労者であるテトスに語りかけているのです。しかし、これを聖書の御言葉として読む現代の私たちには、それに続く部分、「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」という部分に戸惑いを感じてしまいます。頭では判っていても、それを実際に行っていると自信を持って言えないからです。  けれども、それだからこそ、私たちは自分たちの弱さ、すなわち神様に背を向けて隣人との交わりをも蔑ろにするという罪に気づくことができるのです。この罪の気づきは、イエス様がかかられた十字架上での罪の贖いの御業を通しても与えられます。つまり、罪のないまま十字架刑に処されたイエス様のお姿、御体につけられた傷、そこから流れる血、このような悲惨な状況を引き起こし、イエス様を十字架にかけたものが私たち人間自身の罪である事を痛みを以て知らされるのです。弟子のトマスは、そのイエス様の悲惨な姿を見るだけでは、その気づきを受け入れることができずに、復活されたイエス様の手とわき腹の傷口に手と指を入れてみなければならないと言いました。そんなトマスの言葉をイエス様は正面から受け取られて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とお答えになっていらっしゃいます。私たちの信仰の歩みは、この気づきに伴う痛みを感じながら進んでいくものなのです。  とはいえ、痛いだけが私たちの信仰の歩みではありません。そこには、この聖書個所の後ろにあるように、終末の時の再臨のイエス様の栄光を待ち望む希望が与えられています。私たちが聖い体に作り替えられ、永遠の命に与ることへの希望です。その救いのゴール地点を目指して、私たちの信仰の歩みは遅々たるものではありますが、「気づき」の痛みを覚えながらも少しずつ少しずつ進められていきます。日々「気づき」が与えられ、少しずつ作り替えられていく信仰の歩みが許される二〇一七年になりますように。



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